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現在のJR新野駅から南の福井駅へ向かう途中の線路の両側に田園が広がっており、どこを掘っても多い少ないはあるが粘土の層があることがわかっており、創業以来多少の盛衰はあったが、粘土瓦製造は年々盛んになり明治の中ごろより大正にかけて最も盛んであった。製造工場も福井町、新野町にまたがり、二十数戸を数え昭和の初期には年間生産枚数は三百万枚と数えられたという記録がある。家内工業ではあるが近辺の人たちが瓦製造に従事していたのである。
やがて長い戦争の時代が終わり戦後になると、大量の住宅建設が始まり屋根瓦も活気を取り戻したが製造するのに人件費が高くつき、セメント瓦、スレート瓦等安くて新しい屋根材の開発が進み一時期スレート瓦全盛期に入った。粘土瓦は一部高級住宅にしか使用されなくなり粘土瓦の不況時代になり、廃業する者も多くなりその上粘土が埋蔵されていた田園地帯の耕地整理も進み、高低を無くすため粘土層が深く埋もれたり浅いところは削り取られたりして、粘土を掘り出すのに経費が高くつき使用するには採算がとれなくなってきたのであった。
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